エドゥアール・マネ
Édouard Manet/1832-1883

印象派グループの中心的存在 日本美術にも強い関心

マネ「ベルト・モリゾ」 1876

フランスの画家エドゥアール・マネ(Édouard Manet/1832-1883)は、17世紀スペイン絵画の写実主義・リアリズムから強い影響を受け、後に印象派グループの中心的存在として自らの芸術論を極めていった。

右の作品は友人の女流画家ベルト・モリゾを描いた肖像画「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」(1876年)。

マネの生い立ち・有名な作品

マネはパリのルーブル宮殿にほど近い街ポナパルトで高級官僚の家庭に生まれた。伯父に連れられルーブル美術館へ通い、プロの画家として17歳頃から本格的に活動を始めた。

18歳でトマ・クーチュール(Thomas Couture, /1815–1879)に師事し、以後6年間にわたって歴代の巨匠による美術作品を研究し模写を重ねた。

27歳で絵画「アブサンを飲む男」をサロンに初出品するも落選。ただ審査員のドラクロワや詩人のボードレールはマネの作品を高く評価した。2年後の1861年には「スペインの歌手」、「オーギュスト・マネ夫妻の肖像」が初入選を果たしている。

31歳(1863年)で落選展に出品した「草上の昼食」は、野外で男性と裸の女性が寄り添う不自然なシチュエーションが不評を買い、2年後の作品「オランピア」ではフランスの娼婦をモデルとしたことが当時の絵画の常識から見て不道徳とされ物議を醸した。

「草上の昼食 Le Déjeuner sur l'herbe」 1862-63 オルセー美術館

マネが30代半ばから後半にかけての代表的な絵画作品としては、「笛を吹く少年」(1866)、「皇帝マキシミリアンの処刑」(1867)、友人の小説家を描いた「エミール・ゾラの肖像」(1868)などが有名。

ジャポニスム ヨーロッパで一大日本ブーム

1867年、パリ万国博覧会が行われ、末期の江戸幕府から薩摩藩、佐賀藩などが日本の工芸品・美術品を出典すると、当時のヨーロッパ絵画の常識からは考えられない自由な平面構成や空間表現、浮世絵の鮮やかな色使いが西洋画の画家たちに強烈な印象を与えた。

「エミール・ゾラの肖像 Portrait d'Emile Zola」 1868

マネも日本美術に大きな関心を寄せ、パリ万国博覧会の翌年(1868年)にサロンへ出品した「エミール・ゾラの肖像 Portrait d'Emile Zola」では、背景に配された書物や冊子に日本の浮世絵版画が飾られ、尾形光琳を彷彿とさせる屏風絵のような美術品も見受けられる。

印象派寄りの作風へ

40歳前後のマネは、自らがモネドガルノワールセザンヌらと共に議論を深めた印象主義の影響を受け、印象派に特徴的な素早い筆致が作風として現れていった。

「ラテュイユ親父の店にて」 1879

最後の作品「フォリー・ベルジェールのバー」

50歳を迎えた1882年、マネが晩年に残した最後の作品「フォリー・ベルジェールのバー」を出品すると、翌1883年、左足の手術が原因で同年4月30日にこの世を去った。享年51歳。

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